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日割御子神社

式内社調査報告によると、式内「日割御子(ひさきみこ)神社」の伝承地としては、熱田神宮内の境内摂社の日割御子神社にあてることで従来異論はない。

「尾張志」は、「ひさき」の意味は、往古水際に張り出た州崎の名残で、「干崎」の意としている。
【由緒】

創祀年代は不詳だが、社伝によれば、6代孝安天皇の御代に創建されたという。
孝安天皇の母は、世襲足媛(よそたらしひめ)で尾張連の先祖瀛津世襲(おきつよそ)の妹にあたる。

当社と孫若御子神、高蔵結御子神を併せた三神は、熱田大神の御子神を祀るとされる。

当社は、熱田大神の御子神を祀る社として、また熱田七社の一つとして、古くから熱田神宮の重要な摂社とされてきた。

【所在】 

熱田神宮の正面参道入り口の東側、南門の少し東方に鎮座する。

江戸時代以前には本宮の境内が狭く、八剣宮東南の御所町に属し、少し高台になり、周囲には、北に新宮坂町貝塚、南西にあたる八剣宮の南に弥生の貝塚があって、海に突き出た熱田丘陵の先端に位置していた。

【祭神】

現在、天忍穂耳尊(あめのおしほほみのみこと)を祀る。

この神は、素戔嗚尊と天照大神が誓約をしたときに、素戔嗚尊が天照大神の髪飾りの勾玉をかみ砕いて噴き出して生まれた五男神のうちの一柱。

天忍穂耳尊の次男が天孫降臨の瓊瓊杵尊で、長男が尾張氏の祖神である「天火明命(あめのほあかりのみこと)」である。

当社の祭神については、従来、大別して、「火の神」説と「日本武尊の御子」説の二説がある。

火の神とするのは、中世まで遡り、日本武尊が焼津で賊から逃れる際に役立った火打石(天火徹燧⦅あめのほとぼし⦆を当社の祭神とするもので、社名の「日」を「火」と解しての説と思われ、近世になっても、祭神を火の神「加具土神」としている。

ここで、御田神社の候補の一つの「七所社」の祭神に、式内社調査報告では、「軻遇槌命(加具土命)」がある理由が分かった。

これに対し、日本武尊の御子説は、続日本後記に、当社は熱田大神の御子神であると書かれていることから、日本武尊の御子を記紀の系譜から「武鼓王(たけかいこおう」もしくは「稲依別王」としたものである。

【社殿】

社殿は、戦災によって焼失してしばらくは敷地のみであったが、昭和57年に再建された。

現在の社殿は、本殿が一間社流れ造りで、素木造。屋根は銅板葺きで、門・玉垣が設けられている。

江戸時代には、正殿・釣殿・三間板葺の拝殿、その東に御饌殿、西と東に鳥居があった。

下図は、「尾張名所図会」より。

【参拝記】

当社には、2009年12月20日に熱田神宮境内の摂社・末社を見て回った時に参拝した。